新品のトイレブラシにも穢れはあるのか
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一度おしっこを入れたコップを完全にキレイになるまで洗っても、そのコップでお茶を飲むことには抵抗を感じる
一度おしっこを入れたコップを、完全にきれいになるまで洗う。検査しても何も残っていない。それでも、そのコップでお茶を飲むのには抵抗がある。この心理的な抵抗が「穢れ」の本質の一つだ、という話を読んだ。
なるほど。分かりやすい。
ただ、「穢れの本質です」ではなく、「穢れの本質の一つです」なのね。では、ほかの本質はナンジャラホイ。
Togetterの反応にも出ていたが、別に一度汚れたものでなくても、汚くなるために作られたものは最初から嫌な感じがする。新品のトイレブラシを買ってくる。まだ便器には触れていない。袋から出してよく洗う。それでお茶をかき混ぜる。
衛生上はたぶん問題ない。だが、飲みたくない。
過去に汚れた記憶は一つもないのに、将来便器を洗うための道具だというだけで、すでに何かがついている。穢れは過去から来るだけでなく、未来からもやって来るらしい。用途が決まった時点で、まだ何もしていない道具まで汚れてしまう。
似たような話は心理学の嫌悪研究にもある。新品の便器型容器に入れた好物のスープでも食欲が落ちるし、犬の糞の形にしたチョコレートも食べたくなくなる。実物が汚れているかどうかより、何に見えるか、何に使われるものかのほうが強い。
さらに、この感覚は個体から種類へ広がる。あるトイレブラシが便器を洗ったから嫌なのではない。トイレブラシと認識された時点で、新品の別個体も嫌になる。まだ何もしていないのに、仲間の実績を引き継がされる。
ここまで来ると、人間の差別にもつながってくる。死や血や排泄物を扱う職業が穢れているとされる。その仕事をした本人だけでなく、同じ職業の人、その家族、その土地の出身者へと範囲が広がる。一人一人が実際に何をしたかではなく、その種類の人はこれまでそうだった、これからもそうなるかもしれない、という予測で扱われる。
一度汚れた人を避けるだけではない。まだ何もしていない人も、先に避ける。新品のトイレブラシとだいたい同じ扱いである。人に向けるには、だいぶ危うい。
病気を避けるための心理的な仕組みとしては、「怪しいものを見逃す」よりも「無害なものまで避ける」ほうを選びやすいらしい。感染している人を一人見逃す損害は大きいが、健康な人を一人避けても自分はそれほど困らない。いわゆる「念のため」である。この嫌悪反応が集団への偏見へつながる可能性については、行動免疫システムの研究でも議論されている。
だからといって、あらゆる差別の原因が穢れだ、と言うのはさすがに話が大きすぎる。権力や利益や単なる嫌がらせなど、差別にはほかの理由もいくらでもある。ただ、差別が生まれる経路の一つとして、「まだ何も起きていないが、同じ種類だから先に避けておこう」はかなりありそうだ。
そもそも宗教的な穢れも、単なる不衛生の話ではない。死、血、出産、病気などによって生じ、祓いや禊で取り除かれる一時的な状態だった。人格が悪いとか、罪を犯したという話とも少し違う。元のポストが「本質の一つ」と書いていたのは、だいぶ正しそうだ。
過去に接触した汚れ。これから接触する予定の汚れ。同じ種類の別のものが接触した汚れ。それらを全部まとめて避けようとするのが、人間に備わった安全装置なのだろう。安全側に倒しているだけなので、本人には悪意すらない。そこがまた面倒である。
この仕組みが差別につながる。
のだが、新品のトイレブラシでかき混ぜたお茶を目の前に出されたら、多分わたしは飲まない。すまない。そこはまだ精神修養が足りない。