人類、縮小営業のお知らせ

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少子化の話である。

SBI金融経済研究所: 少子化の深層:エリートスポーツ化する育児

SBI金融経済研究所の記事はおもしろかった。少子化を「若者にお金がないから」といういつもの話だけで片付けず、育児そのものがエリートスポーツ化している、という見方をしている。

エリートスポーツ化する育児。

言われてみれば、たしかにそうかもしれない。昔の育児が気楽だったとは思わない。昔には昔の地獄がある。家電も弱い。情報も少ない。父親は謎の置物になりがち。祖父母や近所との距離も今より濃く、それはそれで人間関係の圧がすごそうだ。

ただ、現代の育児には現代の競技性がある。

習い事。知育。受験。英語。プログラミング。体験格差。非認知能力。自己肯定感。スクリーンタイム。栄養バランス。睡眠時間。親のメンタル。

育児という単体競技ではなく、ノンジャンル取り混ぜた総合格闘技である。しかも対戦相手は子どもだけではなく、社会とSNSと自分自身との戦い要素も多い。審判も観客も多い。評論家も多い。やじも多い。

そして、現代社会では仕事もわりとエリートスポーツである。

成果を出しましょう。効率化しましょう。キャリアを積みましょう。スキルアップしましょう。変化に対応しましょう。AIも使いましょう。健康にも気をつけましょう。睡眠も大事です。

そこへさらに育児という別競技が入ってくるわけだ。

仕事ではフルマラソンを走り、帰宅後は育児の十種競技に出場し、夜中に洗濯物を干しながら明日の献立を考える。しかも週末には公園遠征がある。なんだこの大会日程。オリンピックでももう少し休ませてくれるのではないか。しかもそれが十年単位で続く。

そう考えると、若い人が「その競技、私はエントリーしなくてもいいです」と言うのは、かなり合理的に見える。

ただ、ここまでの話は上空から俯瞰して見た話だ。社会構造としては分かる。合理的な選択としても分かる。では、それを個人の人生の中から見るとどうなるのか。

そこで、noteの「『家庭を持つ』ことを諦めるということ」を読む。

note: 「家庭を持つ」ことを諦めるということ

30歳を迎えた筆者が、子どものころに当然あると思っていた家庭像を諦めようとする文章である。年齢、恋愛経験のなさ、共同生活への不安、自分の性格や身体や経済力への不信、親になることへの恐れ。いろいろな理由が積み重なって、「自分は家庭を持たない側の人間なのだ」と整理しようとしている。

「独身は自由で最高」という話ではない。むしろ、かつて自分が思い描いていた普通の人生が遠ざかっていくことへの喪の作業に近い。家庭を持たないことを選んだ、というより、家庭を持てる自分を想像できなくなってきている。

少子化の話では、つい「子どもを持たない人が増えた」とまとめてしまう。しかし、その中には積極的に選んだ人もいれば、結果的にそうなった人もいるし、まだ試合が始まる前から自分で参加資格を捨て去った人もいる。

育児がエリートスポーツ化したという話は、子どもが生まれたあとの親競技だけではないのだと思う。そもそもパートナーを作り、関係を維持し、共同生活を始め、家庭を作るところまでの予選もかなり厳しくなっている。

恋愛経験。コミュニケーション能力。収入。見た目。家事能力。メンタルの安定。親の介護リスク。将来設計。相手への配慮。自分が親になってよいのかという自己審査。

これも項目が多い。

少子化対策というと、どうしても「どうすれば子どもを増やせるか」という話になる。お金を配る。保育園を増やす。育休を取りやすくする。住宅支援をする。もちろん、それらは必要だと思う。子どもを持ちたい人が持てるようにするのは大事だ。

しかし、支援策が届きやすいのは、ある程度スタートラインの近くにいる人たちでもある。結婚している。パートナーがいる。子どもを持つかどうかで迷っている。持ちたいが、お金や住まいや仕事が不安で踏み切れない。そういう人には、政策が背中を押せる。

一方で、もっと手前で「自分には家庭など無理だ」と思っている人には、単純な支援策は届きにくい。保育園を増やしても、住宅支援をしても、その前に恋愛市場、結婚市場、共同生活への不安、自分自身への不信がある。これは政策で扱うにはかなり難しい。

だからといって、結婚しろ、産め、育てろ、国のためだ、みたいな方向に社会を寄せるのはかなり嫌だ。少なくとも、わたしはその社会には住みたくない。人権うんぬんという話というよりは、個人の内面の問題に社会が侵入しすぎで気持ち悪い。

現代社会は、子どもを持たない生き方を否定しない。少なくとも表向きには否定しない。仕事をする。趣味を持つ。友人と過ごす。一人で暮らす。パートナーと暮らす。ペットと暮らす。推しと暮らす。暮らし方はいろいろある。

その自由を認める社会で、「みんなもっと子どもを産みましょう」と言うのは、だいぶ難しい。

そうなると、少子化対策の本題はもはや「子どもを増やす」ではなく、「人口が減ることを前提に社会を作り替える」ほうにもあるのではないか、という気がしてくる。

SBIの記事でも最後に、人口減少に適応する戦略、いわゆるスマートシュリンクの話が出てくる。コンパクトシティ、行政機能や公共施設の統廃合、デジタル技術による効率化。

言い方はかっこいい。スマートシュリンク。

要するに、人類、縮小営業のお知らせである。

営業時間を短くします。店舗数を減らします。セルフレジを増やします。メニューも少し絞ります。でも味はなるべく落とさないようにがんばります。みたいな。

悲しい。悲しいが、閉店よりはだいぶいい。

人口が増え続けることを前提にした社会は、たぶんそろそろ無理がある。人が増える。労働力が増える。市場が増える。税収が増える。新しい住宅地ができる。道路が伸びる。学校が増える。という時代のノリを、ずっと続けるのは難しい。

もしかすると、これから必要なのは、前向きな撤退戦なのだと思う。撤退戦というと負けっぽい。

でも、下手な拡大戦略より、上手な撤退戦のほうがずっと人を救うことはある。無理に全部の道路を維持しようとして全体が崩れるより、ここは畳む、ここは残す、ここに集める、と決めるほうが生活は守られる。

子どもを持ちたい人が持てるようにすることは大事だ。同時に、子どもを持たない人、持てない人、家庭を持つことをどこかで諦めた人が増える社会で、医療や介護や行政や交通や地域や孤独をどう扱うのかも考えなければならない。

たぶん、どちらか片方ではない。

子どもを増やそうという話をしながら、人口は減る前提でも考える。アクセルを踏みながら、ブレーキの場所も確認する。ちょっと不安な運転だが、現代社会はだいたいいつも不安な運転をしている。

最終的には、人類が滅ぶ前にどこかで縮小均衡してくれるといいな、と思う。

人類が増え続けることを前提にしない。それでも、生活の質をなるべく落とさない。科学技術もできれば進める。できれば次の世代に、荒れ地ではなく、まあまあ手入れされた小さめの庭くらいは残す。

人類、縮小営業。

なんだか寂しい言葉だが、閉店セールではない。

まだ営業は続く。

ただ、スタッフが少なくなるので、皆さまセルフサービスにご協力ください。

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