国籍はスポーツ観戦のあらすじである
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スポーツ観戦における「日本人だから日本を応援する」みたいな姿勢があるが、国籍や人種に関係なく、すごい動きや技を見せてくれる選手を応援したい→賛否両論の声
スポーツ観戦で「日本人だから日本を応援する」という姿勢がよくわからない、という話を見かけた。
たしかに、競技そのものが好きな人からすると、そういう見方は雑に見えるのだろう。国籍や人種ではなく、すごい動き、すごい技、すごい判断、すごい戦術を見たい。競技者として優れている人を応援したい。そういう見方はわかる。
わたしも、スポーツによってはそういう見方をすることがある。テニスなら、国籍よりもプレースタイルや試合内容のほうが気になる。日本人選手だから必ず応援する、という感じでもない。すごいショットを打つ選手はすごいし、面白いテニスをする選手は面白い。
ただ、スポーツ観戦というものは、同じスポーツを真剣にやっている人にとっては、いろいろな見方ができる。技術を見る。戦術を見る。身体の使い方を見る。メンタルの揺れを見る。選手の癖を見る。そういう細かい楽しみ方がある。
が、そうでない人にとっては、スポーツ観戦は基本的にエンターテインメントである。
そして、ある程度長い時間をかけて消費するエンターテインメントというのは、結局のところ物語である。
そのスポーツにはどういう歴史があるのか。その大会にはどういう意味があるのか。このチームは今どういう状況なのか。この選手はこれまで何を背負ってきたのか。そして、今目の前でどんな新しい物語が作られようとしているのか。
試合は、その場で起きている出来事だけでは完結しない。前回があり、因縁があり、失敗があり、復活があり、世代交代があり、次回に続く。スポーツはとても連載ものっぽい。
ただし、物語というのは背景導入部が一番難しい。
誰だかわからない人が、どこだかわからない場所で、突然なにか行動しても、意味がわからない。すごいことをしているらしいが、何がすごいのかわからない。負けて悔しそうにしているが、なぜそこまで悔しいのかわからない。勝って泣いているが、なぜ泣くほどのことなのかわからない。
だから、物語として楽しむには説明が必要になる。この人はこういう人物です。このチームはこういう背景があります。この試合はこういう意味があります。だからこの行動にはこういう重さがあります。
でも、説明描写はだるい。
小説や映画でも、説明が多すぎる作品はよくそう言われる。「文章が説明的すぎる」「事実を並べているだけで単調」「設定を全部セリフで説明している」みたいなやつだ。説明は必要だが、説明だけされると面白くない。
スポーツ中継でも同じだ。
試合開始前に、まず競技の歴史から説明する。次に大会の歴史を説明する。次にチームの歴史を説明する。次に選手の生い立ちを説明する。さらに、過去の対戦成績と怪我と監督交代とスポンサー事情を説明する。そこまでやってから、ようやく試合開始。
そんな中継はたぶん重い。
もちろん、熱心なファンにとっては楽しいかもしれない。でも、なんとなくテレビをつけた人や、オリンピックだから見ている人や、家族が見ているから横で見ている人にとっては、そこまでの説明は受け止めきれない。
そこで手っ取り早いのが、出自の共通点である。
同じ国のチーム。同じ国出身の選手。同じ地域の選手。同じ学校の出身者。同じ会社のチーム。自分との距離が近いと、それだけで最低限の背景が手に入る。
日本人選手であれば、細かい経歴を知らなくても、なんとなく日本の学校教育や部活動やスポーツ環境や社会の空気を想像できる。地方出身の選手なら、そこに地方から出てきた感じも勝手に足される。実際にその選手がどうだったかは知らない。知らないが、観客の中にある既存の知識で、物語の下地が作られる。
かなり雑だ。
でも、雑だからこそ速い。
「日本代表です」と言われた瞬間に、観客はだいたいの見方を持てる。日本が世界と戦っている。日本人選手が海外の強豪に挑んでいる。日本の育成環境から出てきた人がここまで来た。そういう物語が一瞬で立ち上がる。
これは、競技の純粋な見方としては邪道なのかもしれない。すごい選手をすごいと見るだけでいいじゃないか、という話もある。わかる。
ただ、観戦をエンターテインメントとして考えると、国籍はとても便利な導入装置なのだと思う。
いわゆる「オラが村の選手ががんばっとる!」という感覚も、たぶん同じだ。村の人間だから応援する。地元だから応援する。出身校だから応援する。知っている会社だから応援する。技術的にどちらが上かを精密に比べているわけではない。物語に入るための入口がそこにある。
そして、その入口から入ったあとで、だんだん競技そのものを見るようになることもある。
最初は日本人だから見ていた。地元の選手だから見ていた。たまたまテレビでやっていたから見ていた。そこから、あれ、この競技はこういうところが面白いのか、この選手のこの動きはすごいのか、この相手選手もかなりいいな、となっていく。
入口としての国籍と、最終的な評価軸としての競技性は、別に矛盾しない。
もちろん、国そのものに強い思いがあって応援している人もいるだろう。国威発揚みたいなものが好きな人もいるだろうし、逆にそういう空気が苦手な人もいる。そこはかなり人による。
ただ、「日本人だから日本を応援する」という姿勢は、単にナショナリズムだけで説明できるものでもない気がする。
それは、長い物語を読むときに、いきなり第27巻から渡された人が、まず知っている名前を探すようなものでもある。
あ、この人は日本人なのね。じゃあひとまずこの人を見ればいいのね。
かなり雑だ。
でも、スポーツ観戦の入口は、それくらい雑でもいいのかもしれない。
そこから先に、競技そのものの面白さまで行く人もいる。行かない人もいる。ただのお祭りとして楽しむ人もいる。日本が勝ったらうれしい、負けたら残念、それで終わる人もいる。
それはそれで、スポーツ観戦として普通にありなのだろう。