子育てノウハウはだいたいn=1〜3
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子どもを不登校のまま休ませるべきか、多少無理をしてでも登校させるべきか…「休ませなかった家庭」と5年後に大きな差ができたと悩む親の投稿に、どんなアドバイスができるか?
こういう話を見ると、どうしても知りたくなる。
不登校になった子どもを休ませるべきだったのか。多少無理をしてでも登校させるべきだったのか。似たような状況にいた家庭は、その後どうなったのか。親は何を考え、何をして、何をしなかったのか。
それを知りたい気持ちはとてもわかる。切実だ。子育てというのは、だいたい取り返しがつかない感じがする。やっている最中は毎日が本番で、結果が見えるのは何年もあとだ。今日の判断が五年後にどう響くのか、誰にもよくわからない。
だから、過去の知見が欲しくなる。経験者の話を読みたくなる。専門家の話も聞きたくなる。学校に行かせた家庭、休ませた家庭、途中で方針を変えた家庭。その全部のその後を並べて見たくなる。
そして逆に、自分の経験を語りたくなる人もたくさんいる。
うちはこうだった。あのとき休ませてよかった。いや、行かせてよかった。無理に行かせられて壊れた。無理にでも行かせられたから今がある。家で休ませたら回復した。家で休ませたらそのまま動けなくなった。
どれも本当なのだろう。たぶん本当だ。
ただ、子育てのノウハウというものは、所詮は n=1 から n=3 くらいの話で全体を語りがちである。自分の子どもが一人か二人。多くても三人。その子たちに対して自分がやったこと。その結果として見えたこと。そこから「こうすべきだった」「こうすればよい」が生まれる。
もちろん、n=1だから価値がないわけではない。人間の生活はだいたいn=1でできている。自分の体調、自分の仕事、自分の家族、自分の失敗。大事なことは、だいたい統計の外側で起きる。
しかし、n=1の経験談は、強い物語になりやすい。
自分の子どもがうまくいった。だからこの方針は正しかった。自分の子どもがうまくいかなかった。だからこの方針は間違っていた。そう考えたくなる。親としてはそう考えないと、気持ちの置き場がないところもある。
でも実際には、その結果が親の選択によるものだったのか、子どもの性格によるものだったのか、学校との相性によるものだったのか、友人関係によるものだったのか、体調によるものだったのか、家庭環境によるものだったのか、時代や地域や先生の偶然によるものだったのか、簡単には切り分けられない。
たぶん、ほとんどが混ざっている。
それでも人は、混ざったものから一つの教訓を取り出したくなる。あのとき休ませたからよかった。あのとき行かせたからよかった。親が甘かった。親が厳しすぎた。学校が悪かった。社会が悪かった。本人の特性だった。
出来事にラベルをつけると、少し安心する。
しかも、そういう体験談は本やメディアでも扱いやすい。切実で、読みやすくて、結論がある。成功談にも失敗談にもできる。親の努力の物語にも、社会批判の物語にも、教育論にもできる。
そして、そこに信者がつく。
この先生の方針が正しい。この家庭のやり方が正しい。この不登校経験者の言うことが正しい。この塾の考え方が正しい。もちろん参考になるものはあるだろう。だが、子どもというのは本当に個体差が大きい。家庭も学校も地域も違う。なのに、ある家庭の物語が、いつの間にか一般ルールのような顔をし始める。
厄介なのは、学問的にちゃんと調べられた知見であっても、目の前の一人の子どもにそのまま使えるとは限らないことだ。統計的にはこういう傾向がある。大規模調査ではこういう結果が出ている。そういう情報は大事だ。大事なのだが、明日の朝、子どもが玄関で泣いているときに、そのまま答えをくれるわけではない。
だから、個人の体験談レベルのバズりを否定しきれない。
大規模調査は正しいかもしれない。しかし、目の前の人間の苦しさに手触りを与えるのは、知らない誰かの体験談だったりする。ああ、大変そうだな。うちの場合はこうだったな。わたしならどうしただろうな。そうやって考える材料になる。
わたし自身も、自分の子育てについて、こういう方針でやってきた、みたいなものはある。うまくいったこともあるし、うまくいかなかったこともある。結果論としては、そこそこうまくいったように見える部分もある。
でも、それがわたしの選択やポリシーのおかげだったのかは、正直よくわからない。
子ども本人の性格がたまたまそうだったのかもしれない。周囲の環境がたまたまよかったのかもしれない。大きな問題が起きなかっただけかもしれない。わたしが何かをうまくやったように見えても、実際には運がよかっただけかもしれない。
ただ、世の中にはそうは思わない人も多い。
自分の体験談を、かなり強い確信として語る。他人の体験談を、自分の主張の根拠として持ってくる。うまくいった例とうまくいかなかった例を並べて、「ほら、だからこうすべきだったのだ」と言う。
気持ちはわかる。わかるのだが、少し怖い。
不登校の子どもを休ませるべきか、登校させるべきか。そんな問いに、外野がきれいな正解を出せるわけがない。本人の状態も、学校の状況も、家庭の体力も、親子関係も、全部違う。
だからたぶん、言えることはあまり多くない。
大変そうだな。判断が重いな。あとから振り返って悩むのもしんどいだろうな。うちの場合はこうだったが、それが他の家に当てはまるかはわからない。
そのくらいの温度で話すしかない気がする。
でも人間は、そういう曖昧なままの話が苦手だ。正解が欲しい。物語が欲しい。自分の判断を支えてくれる誰かの強い言葉が欲しい。
まあ、人間というのはそういうものだ。