空気ルールを棚卸しする

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地方のイオンモールで、母親は普通で娘は地雷系、みたいな親子を見かけると、そこからしか摂取できない栄養がある、という話を見た。

わかるような、わからないような。いや、たぶんわかる。光景としての情報量がある。普通の親と、強めのファッションをしている娘。その組み合わせに、なんとなく親子関係の奥行きが見える。親が止めていないのか。応援しているのか。慣れているのか。娘は娘で、自分の好きな格好をして、でも親と普通に買い物に来ている。その感じがちょっといい。

こういう話はつまるところ、偏見という言葉と表裏一体になっている。

偏見とはどこからなのか。これがかなり難しい。

見慣れない服装の人を見て、少し目が行く。外国語で話している人を見て、なんとなく気になる。強いメイクや派手な髪色や独特なファッションに、ギョッとする。そこまで全部だめだと言われると、正直困る。人間は差分を見る生き物である。ありきたりなものと珍しいものを同じようには見ない。

違うものは違って見える。

それ自体を完全になくすのは、たぶん無理だ。珍しいものを珍しいと感じるな、と言われても、目と脳が先に反応してしまう。そこはかなり生理的な反応に近い。

問題は、そのあとだと思う。

違って見えた。だから雑に扱う。違って見えた。だから警戒する。違って見えた。だから、前に似たような人で嫌なことがあったから、この人もそうだろうと決める。だいぶ危ない。

見た目から何かを予測してしまうことはある。完全にゼロにはできない。でも、その予測をどれくらいの重さで採用するのかは、もう少し慎重であるべきだ。

あなたのグルーピング能力は、どれほど高いのですか。

似たような服装。似たような話し方。似たような国籍。似たような年齢。似たようなSNSのアイコン。そういう薄い共通点で、人間をかなり強く分類したくなる。でも、その分類は本当に目の前の個人を上書きできるほど確かなものなのか。だいたいの場合、そんなに確かではない。

偏見は、見た瞬間の違和感にあるというより、その違和感を根拠に扱いを変えるところに出るのだろう。

見慣れない相手を見てギョッとしてしまう。それはある程度しかたがない。でもそこから先は、知性と理性の仕事である。目の前の人が実際にどう振る舞っているのかを見る。個人として見る。薄いグルーピングで決めつけないようにする。そういう努力はいる。

一方で、この話はそこで終わらない。

最近は、街の中で外国語を話している人を見かけることも増えた。観光客にも住人にも増えた。いろいろな服装をしている人も増えた。日本人がなんとなく共有していた"空気"を共有していない人も、当たり前に同じ公共空間にいる。

そこで出てくるのが、日本人の空気ルールである。

電車では大声で話さない。列に並ぶ。店員に横柄にしない。道をふさがない。エスカレーターでは片側を空ける。人が多い場所ではなんとなく流れに乗る。そういう、法律ではないけれど、みんながなんとなく守っているルールがある。

この空気ルールは、かなり社会を滑らかにしている。日本の公共空間が比較的静かで、整然としていて、混雑していてもなんとか回っているのは、こういう無数の空気ルールのおかげでもある。

ただし、この空気ルールはかなり厄介だ。

なぜなら、守っている本人たちも、そのルールをあまり言語化できていないからだ。

なんだかわからないが、みんな守っている。みんな守っているから自分も守る。守らない人がいると、なんとなく嫌な感じがする。嫌な感じがするから圧をかける。でも、そのルールが本当に今も守るべきものなのかは、あまり考えない。

エスカレーターの片側空けなどは、かなり象徴的だと思う。

鉄道会社などは、エスカレーターでは歩かず二列で立ってください、と呼びかけている。安全上も輸送効率上も、そちらのほうがよいとされる。それでも多くの場所では片側を空ける。片側を空けない人がいると、なんとなく圧がかかる。公式ルールより空気ルールのほうが強い。

誰が決めたわけでもない。

でも強い。

これが空気ルールの怖いところだ。責任者がいないのに、運用だけが強い。変更したいときに、誰に言えばいいのかわからない。駅員が言っても変わらない。掲示があっても変わらない。群衆の中の無言の空気警察が、古いルールを取り締まり続ける。

外国人や、空気を共有していない人が入ってくると、この問題がさらに見えやすくなる。

彼らが空気を読めないのではなく、その空気はそもそもどこにも書かれていない。さらに言えば、書いたら正当化できない空気ルールもある。明文化してみると、「あれ、これ別に守らなくてよくない?」となるものもある。

だから、日本人はもっと空気ルールに意識的になったほうがいいのだと思う。

この空気は守るべきものなのか。

これは公共空間を守るためのルールなのか。

それとも、単に昔からそうしているだけの慣習なのか。

これは明文化して共有すべきなのか。

それとも、もう捨てたほうがいいのか。

見慣れない人を見て雑に裁く前に、自分たちが守っている空気も棚卸ししたほうがいい。

もちろん、法律に違反していなければ何をしてもいい、という話でもない。公共空間には、法律より手前の配慮がある。電車で大声を出されれば困るし、列に割り込まれれば困るし、店員に横柄な態度を取る人を見れば嫌な気持ちになる。そういう規律は必要だ。

ただ、それを「空気を読め」で済ませるのは、だんだん難しくなっている。

空気を共有している人同士なら、空気で通じる。

でも、空気を共有していない人には、空気は読めない。読めないものを読めと言うのは、かなり無茶である。説明書のない機械を渡して、なんで操作できないんだと怒るようなものだ。

だから、必要なルールは言葉にするしかない。

電車では大声で話さない。列に並ぶ。通路をふさがない。危険なのでエスカレーターでは歩かない。そういうものは、空気ではなくルールとして共有したほうがいい。逆に、言葉にしてみると正当化できないものは、空気ルールとしての寿命が来ているのかもしれない。

偏見の話と、空気ルールの話は、たぶんつながっている。

見慣れないものを見てギョッとする。そこまでは人間である。

でも、その相手を雑に分類して扱いを変えるのは危ない。

そして、相手に守ってほしい規律があるなら、自分たちもその規律が本当に必要なものなのか、言葉にできるのかを考えたほうがいい。

空気を読む前に、その空気は必要なのか。

その棚卸しをしないまま、空気警察だけが増えていくと、たぶんだいぶ息苦しい社会になる。

空気を読め。

その前に、空気の中身を見えるようにしておかないと。

空気ルールを棚卸しする