ニュースはレジ袋に詰められる

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「コンビニ袋詰めロボを公開、29年までに実用化」というニュースを見かけた。

最初に見たときは、いやいや、コンビニ店員の仕事のうち、レジ袋に詰める部分だけを高そうなヒューマノイドにやらせてどうするのだ、と思った。時給の安い人間がかなり器用にやっている作業を、巨大で高価そうな機械で置き換える。どう考えてもコスパが悪そうである。ツッコミ待ちなのか。

ただ、テレイグジスタンスの発表を見ると、たぶんそういう話ではない。主役は「レジ袋詰めロボ」ではなく、現実空間で物を見て、掴んで、動かす汎用的なフィジカルAIのデモなのだろう。VLAベースのシングルポリシー自律制御とか、NVIDIAのWorld Modelとか、そういう話である。急に単語が強くなる。レジ袋からNVIDIAが出てきた。

2029年という話も、セブンイレブンとのパートナーシップで、店舗への導入を念頭に置いて取り組む、という文脈にある。つまり、ロボットはレジ袋を詰めたいわけではない。レジ袋に詰めているところを、われわれに見せたいのだ。

ところがニュースになると、そこは「コンビニ袋詰めロボ」になる。間違いではない。間違いではないのだけど、だいぶ端折られている。Physical AIだのVLAだのと言われても人間は読まないが、コンビニ袋詰めロボと言われると、ちょっと読む。レジ袋は強い。AI用語より強い。

こういう見出しを見ると、つい「メディアはPVの奴隷だ」と言いたくなる。わかりやすい。言っていて気持ちもいい。ニュースメディアの人たちは、事実を伝えるよりも、クリックされる形に丸めることを優先しているのではないか。そういう疑いが、かなり自然に湧いてくる。

だって、フィジカルAIの汎用デモです、と言われても地味である。VLAベースのシングルポリシー自律制御です、と言われても、こちらの脳がレジ袋を取り落とす。そこへ「コンビニ袋詰めロボ」である。急に絵が見える。レジ前でロボットがもたもたしている様子まで想像できる。読まれるに決まっている。

ニュースの見出しは、事実の紹介というより、読者の目玉をつかむマジックハンドみたいになっているところがある。手を伸ばして、ぐいっと掴む。掴めれば勝ち。中身の正確さはもちろん大事なのだが、その前にまず掴まないと始まらない。PVという神棚に、今日も見出しが供えられている。

そう考えると、ニュースメディアはPVの奴隷なのではないか。少なくともPVの顔色はかなりうかがっている。PV様、今日もお納めください。こちら新鮮なレジ袋ロボでございます。そんな声が聞こえる。聞こえないかもしれないが、わたしの耳にはだいたい聞こえる。

ただ、そこで話を終わらせると、それはそれで雑すぎる。メディアがPVを気にするのは、単に魂が濁っているからではない。ニュースメディアは読まれなければ存在できない。存在できなければ、正しい情報を流すこともできない。正しい情報を、誰にも読まれない形で机の上に置いておくことは、たぶん報道ではなく保管である。

だからニュースは、事実をそのまま置くのではなく、人間が持ち帰れるサイズに包装する必要がある。ただ、包装するとちょっと変形する。レジ袋に豆腐と卵と2リットルの水を一緒に入れるくらい難しい。卵割れないでね。

これは新聞社やテレビ局の存在意義と商業主義の話でもある。新聞社やテレビ局は、建前としては公共に必要な情報を伝える機関である。しかし同時に商売でもある。読まれなければ、見られなければ、広告も購読料も入らない。取材費も払えない。記者も雇えない。つまり、正確であることと、見られることの両方を要求されている。かなりつらい仕事である。

NHKのような半公的な仕組みなら、この問題は少し軽くなるのかもしれない。PVに直接は左右されにくい。ただ、その代わりに、政治的圧力、公共性、無難さ、全方位への配慮、炎上回避みたいな別の重力がかかる。民間メディアはPVに引っ張られ、公共メディアは公共っぽさに引っ張られる。完全に透明なニュース媒体みたいなものは、たぶん存在しない。透明なレジ袋すら、結局は袋である。

アメリカのメディアは、そのあたりがかなり露骨に見える。保守なら保守、リベラルならリベラルで、それぞれの読者に向けてニュースを届ける。ニュースというより、思想ごとの定食屋である。今日も共和党定食、民主党定食が出てくる。付け合わせの怒りも大盛りだ。

日本は少し違う。新聞社にもテレビ局にも色はあるが、基本的には「中立です」という顔をする。中立です。公正です。客観報道です。という顔をしながら、実際にはかなり反権力・反与党的な文法でニュースを作る。

もちろん権力監視は大事だ。与党は行政権を持っている。予算も動かす。官僚機構も使う。強く監視されるべきである。権力は見張らないと変な方向へ転がる。だいたい人間がやっているので。

ただ、反権力と言うなら、野党政治家も権力者ではある。議席を持ち、税金で活動し、世論に影響し、政権を取る可能性がある。なのに「権力監視」という言葉の辞書では、なぜか権力欄に与党しか登録されていないことがある。その辞書、アップデートしたほうがいい。

昔はそれでも成立していたのだと思う。新聞とテレビが大きく、マスメディアが舞台照明を当てていた時代には、「与党を追及する野党」という絵がそのまま正義っぽく見えた。戦後の平和教育や反権力文化、日教組的な空気、左派知識人文化みたいなものも、そこにかなり混ざっていたのだろう。もちろん歴史的な原因を一つにまとめるのは雑すぎるが、そういう味付けのスープだった感じはある。

しかしネット時代になって、そのバランスの悪さがかなり見えやすくなった。野党の失言も、過去発言も、身内への甘さも、検索され、比較され、保存される。マスメディア時代には流れて消えたものが、ネットでは標本箱に入れられる。嫌な博物館である。

左派系政党がここ数年でうまくいっていないように見えるのも、そのあたりと関係している気がする。マスメディアという実家に長く住みすぎたのかもしれない。実家のテレビが小さくなり、新聞が薄くなり、玄関先にYouTubeとXが勝手に住み着いたあたりから、急に生活の仕方がわからなくなっている。

「権力監視」「市民」「平和」「多様性」「弱者のため」という言葉は、マスメディア時代には道徳的に強かった。しかしネットでは、それだけだと「で、あなたたちは何をどうするの?」「野党の権力性は?」「身内には甘くない?」とすぐ返される。返されるのが正しいかどうかとは別に、返されるようになってしまった。昔はその声がテレビの中にまで届かなかっただけなのかもしれない。

というわけで、レジ袋詰めロボのニュースを見ていたはずなのに、気がついたら新聞社とテレビ局とアメリカの党派メディアと日本の野党の話になっていた。

ずいぶん遠くまで来てしまった。

たぶんニュースというものは、そういうものなのだ。何かを伝えるためにレジ袋に詰める。そして家に帰って袋を開けると、買った覚えのないものまで入っている。

ニュースはレジ袋に詰められる