世界線という言葉を真面目に考えると自己中の物語になる

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世界線という言葉がある。

今ではわりと普通に使われている言葉だと思う。

別の世界線では結婚していた。別の世界線ではあの会社に入っていた。別の世界線ではちゃんと朝起きていた。最後のは世界線というより生活習慣の問題だが、まあそういう使い方をする。

個人的には、この言葉が強く市民権を得たのは『STEINS;GATE』あたりだと思っている。もちろん世界線という言葉自体はそれ以前からある。物理用語としてはかなり古い。相対性理論の文脈で使われる world line の訳語だ。

ただ、今のネットや日常会話で使われる「世界線」は、物理用語そのものではない。むしろ「タイムライン」「別ルート」「並行世界」「ありえたかもしれない人生」くらいの意味で使われている。

『STEINS;GATE』では、世界線という言葉が作品設定の中心にあった。α世界線、β世界線、世界線変動率、ダイバージェンスメーター。そういう言葉が出てくる。あれによって、多くの人が「時間が変わったり歴史が変わったりする話を、世界線と呼ぶのだ」と認識したのではないかと思う。

さらに Official髭男dism の『Pretender』で、「もっと違う設定で、もっと違う関係で出会える世界線」という歌詞が出てくる。藤原聡は『STEINS;GATE』からインスピレーションを受けたと語っているらしい。

なるほど。シュタゲでオタク語として強くなり、Pretenderで恋愛一般語として外に出ていった。そういう流れに見える。

一方で、昔のタイムトラベルものでは、あまり「世界線」という言葉を前面に出していなかった気がする。

『バック・トゥ・ザ・フューチャー』なんかは、今の言葉で言えばかなり世界線っぽい話だ。ビフがスポーツ年鑑を使って荒れた1985年を作る。あれはもう別の世界線と言いたくなる。

でも、あの作品を見ていた当時に「世界線が変わった」とは言っていなかったと思う。たぶん「別の時間軸」「変わってしまった未来」「歴史改変」みたいな言い方をしていた。

『夏への扉』でも、『時をかける少女』でも、『ドラえもん』のタイムマシンでも、概念としては世界線っぽいものはいくらでもある。けれど、それを世界線という言葉で呼んでいた記憶はあまりない。

もちろん、ちゃんと探せばシュタゲ以前の小説や漫画にも、時間改変の説明として世界線という言葉を使った作品はあるのかもしれない。物理用語としては昔からあるので、SF作家がそれを使っていても全然おかしくない。

ただ、少なくとも私の雑な記憶と、少し調べた範囲では、シュタゲ以前の古典的なタイムトラベル作品で、世界線という言葉が作品の看板になるほど押し出されていた例はすぐには思いつかない。

ここで、物理用語としての世界線に戻る。

物理でいう世界線は、かなりざっくり言うと、一つの物体や観測者が時空の中でたどる履歴のことだ。

三次元の空間に時間を足した四次元時空の中で、ある物体がどこにいたのかを線として表す。コップならコップの世界線。人間ならその人の世界線。光なら光の世界線。

つまり本来の世界線は、世界全体の分岐ではない。あくまでも一つの対象がたどる線だ。

ここが面白い。

今のSF的・日常語的な世界線は、世界全体が分岐するような意味で使われている。誰か一人だけではない。家族も、友人も、会社も、社会も、歴史も、恋愛も、全部まとめて別ルートになる。

それはもはや、一本の線というより、世界全体の履歴セットだ。世界線というより、世界面とか世界束とか言いたくなる。いや、言葉としては世界線のほうがずっとかっこいいので、世界線でいいのだけど。

このズレを、あえて『STEINS;GATE』に戻して考えると少し変なことになる。

作中では、世界線が変わると世界全体の歴史が変わるように描かれる。まゆりが死ぬ世界線、紅莉栖が死ぬ世界線、シュタインズゲート世界線。オカリンは世界を移動し、世界を救おうとする。

でも、物理用語としての世界線に寄せるなら、それは本当に世界全体の線なのだろうか。

世界線が一つの観測者の履歴だとすれば、変わっているのは世界全体ではなく、オカリンが観測している世界なのではないか。

他の人たちは、その世界で普通に連続して生きている。死んだり、生き残ったり、出会ったり、出会わなかったりする。ただ、それらを「変わった」と認識できるのはオカリンだけだ。

そう考えると、『STEINS;GATE』は世界を救う物語というより、オカリンが自分の記憶と納得を救う物語に見えてくる。

もちろん、これは意地悪な読み方だ。作中設定としては、世界線は世界全体の歴史ルートを指す。そこに物理用語の定義を持ち込んで、「本当は違うのでは」と言うのは、だいぶ面倒くさい。

しかし、言葉を真面目に考えると、その面倒くさい方向に少し進んでしまう。

救われたのは世界なのか。

それとも、世界を救ったと感じられるオカリンなのか。

世界線という言葉を物理用語に戻すと、急に物語が自己中に見えてくる。世界を救ったつもりが、救われたのは自分の観測だけだった、みたいな話になる。

そういえば、一昔前にはセカイ系という言葉も流行った。

なんでもない主人公が、なぜかセカイの命運を握っている。主人公とヒロインの関係、主人公の選択、主人公の内面が、そのまま世界の終わりや救済につながっている。そういうタイプの物語をセカイ系と呼んでいた。

あれも世界線という言葉に照らし合わせると、少し変な見え方になる。

本当に世界の命運なのか。

それとも、観測者である主人公の世界線に限った話なのか。

主人公の内面が世界と直結しているように見えるのは、実は主人公の観測している世界だけが肥大化しているからではないのか。妄想癖のある主人公の妄想に、さらに妄想を重ねた話なのではないか。

もちろん、これも意地悪な読み方だ。セカイ系を全部「主人公の妄想でした」と言いたいわけではない。ただ、世界線という言葉を真面目に考えると、主人公の見ている世界と、世界そのものの区別が急に気になってくる。

でも、よく考えると物語というものはだいたいそうなのかもしれない。

世界がどうなったかより、自分がそれをどう見たか。誰かが死んだかどうかより、自分の記憶の中でその人がどう残ったか。歴史が正しいかどうかより、自分が納得できる結末にたどり着けたか。

そういう意味では、世界線という言葉はかなり正直な言葉なのかもしれない。

世界の線と言いながら、実は誰か一人の線である。

そして、その誰か一人にとって世界が変わるなら、それはもう世界が変わったのと同じなのだろう。

自己中である。

ただ、たぶん物語はそのくらい自己中でちょうどいい。

参考: Einstein Online: world-line / 天文学辞典: 世界線 / レファレンス協同データベース: 世界線の語源 / 歌ネット: Pretender インタビュー