対話の前に正解が決まっている教室と、リベラルの内輪感覚

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Togetterのまとめ

「対話」が教室のファシズムを加速させる時

元記事の主張は、教室で人権問題を「対話」させると、多数派の価値観が正解になり、少数者の子どもが自分の価値観を劣勢の中で説明させられるという、人道的におかしなことになりがちだ。だから教師は、自由な議論に任せず守るべき線を先に示すべきだ、というものだ。ここまでは分かる。

引っかかったのは、その先である。記事は「配慮はキリがない」「マイノリティの要求を押し付けないでほしい」といった学生の発言を、知識不足や不安、相対的剥奪感、ネガティブ・ケイパビリティ不足で説明する。つまり、そういうことを言うのは、知識がなく不安に耐えられないからだ、という見立てである。

そういう傾向はあるかもしれない。でも、その学生が本当に何を考えていたかは分からない。それなのにその発言だけを見てパターン分類をして、無知で未熟な人だと診断してしまう。こういう話のまとめ方が、リベラルが嫌われるときの典型パターンに見える。

そもそも、ここでいう「知識」もだいぶ内輪向けである。自分たちの思想的なバックボーンを学んでいれば、知識がある。それ以外は無知。相手が別の知見を持っていても、この採点では点にならない。

とくに知識として数えられていないのが、愛国右派的な野良知見である。ネットや生活の中で拾い集めた雑多な知識は、正しいか間違っているかを検討される前に、偏見や無知の表明として処理される。しかも本人は、それを馬鹿にしているつもりもなく、知識のない人へ教え諭しているだけだと思っていそうである。

こういう野良知見は、間違っていることも多いし、そのまま一般化できるものでもない。ただ、現場の肌感という形でしか出てこない事実もある。一事例だからといって、存在しなかったことにはならない。全体を考えるときにも無視できないレアケースだってありうる。

リベラルは、そういう現場の肌感を無意識にも意識的にも下に見がちに見える。統計や学問の言葉になっていないから、知識ではなく偏見として処理する。でも、雑な知見の中に混ざっている事実まで切り捨てたら、それもまた現実を見ていない。

その一方で、「庶民感覚」「市民感覚」という言葉はよく使う。ところが、そこで想定されている庶民や市民は、自分たちと同じ知見や価値観を共有する人にかなり限定されている。違う肌感を口にした庶民は、庶民の一人として扱われる前に、無知で偏見を持った野蛮な人へ分類される。

庶民感覚を尊重すると言いながら、都合の悪い庶民は庶民の定義から外す。それなら、その言葉が表しているのは庶民感覚ではなく、ほぼ内輪感覚ではないか。

もちろん、リベラルに近い思想を持つ人が、みんなこの内輪へ入っているわけではない。思想としてはリベラル寄りでも、生活感としては庶民的な価値観の中で生きている人もいる。そういう人は、自分とは違う周囲の価値観も、毎日の肌感として知っている。

身近な家族や同僚や近所の人を、知識がなく未熟な人たちとして簡単に下に見る考え方はなかなか受け入れにくいだろう。それを平気で受け入れられるのは、思想を学んだ自分たちは一段上にいる、という選民思想まで一緒に受け入れた人たちなのではないか。

もちろん、愛国右派的な野良知見は科学的な知見から離れていることも多い。そこはまあ、そうだろう。ただ、それを切る側が使っている「構造的差別」「相対的剥奪感」「ネガティブ・ケイパビリティ」も、この学生たちの内面を説明できると科学的に証明されたものではない。学問上の言葉を使ったただの解釈である。

わたしはそもそも、人文系の知見を自然科学と同じ意味で「科学的知見」と呼ぶことにはだいぶ違和感がある。学問としての蓄積はあっても、解釈や思想は入る。片側だけを科学的知識、反対側を無知と分けられるほど、きれいに分けられる気がしない。

自分たちの思想の正しさは疑わず、それに反することを言う人は自動的に下に見る。相手が怒ったら、ほら、不安に耐えられないから怒るんだ、と内輪の論理で説明する。反論が来ても、自分たちの論の弱いところを見直すことは少ないように見える。

こうなると、これは誰のための言説なんだろう。リベラルの考え方を知らない人へ説明し、その思想への共感を広めるための文章には見えない。外の人は最初から無知として扱われ、反感を持って離れていくことを、たぶん狙っていないのに狙っている。

残った内輪では「まさにそう」「よく言ってくれた」と褒め合う。論の瑕疵を指摘する人はほとんど現れない。現れても、まともに話を聞く相手には入っていかない。もはや思想を広めるより、内輪で承認欲求を満たし合う言説になっている。

こういう態度は、内輪以外の本来の一般庶民にも普通に伝わる。リベラルの思想を細かく読んで嫌いになるというより、ああ、この人たちは内輪以外を無知な人として扱っているんだな、と感じて嫌な気分になる。たぶん、近年リベラルが一般庶民から嫌われることが増えた理由の大きなものはこれだろう。

差別をしたいわけでも、少数者を攻撃したいわけでもなく、個人的な体験や、線引きや負担の話をしたかっただけな人たちも、無知で未熟な側へ分別される。

本当に面倒なのは、配慮どうしがぶつかるときだろう。誰が何をどこまで負担するのか。ある人を守るルールが、別の人の行動をどこまで制限するのか。最低限の権利とはどこまでか。その線引きを誰が決め、あとからどう直すのか。

そういう話を教室でするならば、何らかの守るべき線は必要だろう。でも、その線が最初から議論不要の正解として置かれ、それ以外が自動的に下に見られるのだとしたら、対話はある特定の人にとって正しい感想を発表するだけの会になる。

そしてそれに対して反感を持った人たちを見て「やはり差別する人たちは知識がないなー」と納得するのだろう。それはもはや何も現実を変えることのできない言説を、自己満足的に垂れ流しているだけなのでは。

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