「自分の頭で考える」ことの功罪

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結構昔から、「自分の頭で考える」ことは良いことだと扱われてきた。

まあ、それ自体はそんなに変な話ではない。世の中にはいろいろな言説がある。権力者や資本家にとって都合のいい話が、もっともらしい顔をして流れていることもある。あるいは、単に多くの人が言っているだけで、よく見ると品質が低かったり、普通に間違っていたりする話もある。

そういうものに流されず、自分で考えよう、という話だったのだと思う。

多分どちらかというと、前者への警戒が強かったのだろう。権力者や資本家による思想統制を警戒する、古い時代の日教組的な人たちが、「与えられたものをそのまま信じるな」「自分の頭で考えろ」と言ってきた。雑に言えば、そういう流れがあったのだと思う。

その態度には意味があった。新聞、テレビ、教科書、会社、学校。限られた情報源がかなり大きな力を持っていた時代には、「それ本当か?」と一度立ち止まることには、かなり実用的な価値があったはずだ。

ただ、インターネット時代を経て、さらにAI時代になってきた現在、「自分の頭で考える」ことの是非については、もう一度考え直したほうがいい気がする。

昔に比べると、マスメディアは力をかなり減らした。一方で、SNSや検索エンジンや動画サイトが強くなった。以前のように、限られたマスメディアの情報と、近所や職場で聞く怪しい口コミの中から情報を選ぶ、という感じではなくなっている。

今は、ネット上に大量の情報がある。公式情報もある。論文もある。行政機関の資料もある。専門家が一般向けに書いた解説もある。全部を読むのは大変だが、少なくとも入口にたどり着くこと自体は、かなり簡単になった。

もちろん、その横には、個人が発信する非公式な情報や、非科学的な知見や、妙に気持ちよく断言してくれる動画も大量に流れている。ただ、それらについても、少し検索すれば、根拠がある話なのか、どこから出てきた話なのか、だいたい調べられることが多い。

料理で言えば、昔は家にある古いレシピ本と、親戚から聞いた「だいたいこれくらい入れればいい」という話だけで作っていたのが、今はプロのレシピ、食品メーカーの説明、栄養成分、失敗例まで一気に見られるようになった、みたいな感じだ。

その状況で、「自分の頭で考える」余地はどれくらい残っているのだろうか。

受け取った情報を無条件に受け入れろ、という話ではない。そこは全然違う。

ただ、「自分の頭で考える」ことよりも、「正しい情報にアクセスして、それをちゃんと受け入れる」ことの重要度がかなり上がっているのではないか、と思う。

何が正しくて、何が正しくないのか。その判断基準は、もちろん最終的には各個人の頭の中にある。だが、科学的・論理的な最低限の判断基準と、インターネット時代に即した情報処理技術があれば、「自分の頭で独自に結論を出す」以前に、ある程度確かな情報へアクセスすることはできる。

天気予報を見ずに空を眺めて、「雲の感じからして今日は晴れる」と考えることはできる。昔ならそれも大事な能力だったかもしれない。でも今は、雨雲レーダーを見たほうがだいたい早い。もちろん予報も外れる。ただ、だからといって自分の勘と雨雲レーダーを同じ重さで扱うのは、ちょっと違う。

「自分の頭で考える」は、このあたりを混ぜてしまうことがある。

もちろん、調べても判断が難しい情報はある。専門家の間でも意見が割れているもの。まだ研究途上のもの。価値判断が混ざるもの。そういう場合には、自分の頭で考えることの価値は出てくる。

しかし、そういう場面は、世の中の多くの判断機会の中では、実は結構少数派なのではないかと思う。

少なくとも、体感としては逆になっている。すでにかなり調べられていること、専門的な合意があること、公式情報を見ればかなり判断できることに対して、「いや、自分の頭で考えた結果」と言って、妙な独自見解が出てくる。

しかも、この「自分の頭で考える」という言葉は、何かを判断することを強く促しているように見える。

AとBという二つの意見がある。どちらかを選ばなければならない。そこで自分の頭で考えて、Aを採用する。あるいはBを採用する。そういう頭の使い方を要求しているような感じがある。

でも、本当に大事なのは、よくわからないことに対して、無理にどちらかの側につくことではないはずだ。

科学的・論理的に情報を処理した結果、どちらが正しいのかよくわからないなら、「よくわからない」という立場を維持すればいい。判断を保留する。態度を固めない。よくわからないものを、よくわからないままにしておく。

これは、わりとちゃんとした知的態度だと思う。

レストランでメニューを見ていて、まだ食べてもいない料理について「こっちが絶対うまい」と断言する必要はない。写真と説明を見て、まあこっちかなと思うことはある。でも、食べてみたら違うかもしれない。隣の席の人が頼んでいるのを見て、やっぱりあっちだったなと思うこともある。

そのとき、「さっき自分の頭で考えてこっちを選んだので、絶対に正しかったことにする」とやると、だいぶ無理が出る。

情報についても同じで、一度どちらかの立場を良いと考えたとしても、その後いろいろ調べた結果、最初の立場がイマイチだったと思ったら、変えればいい。あるいは、「よくわからないから中立」に戻ってもいい。

そこに負けはない。

むしろ問題なのは、「自分の頭で考える」という言葉が、「なんだかわからないけど独自の判断をしてもよいのだ」という態度を肯定してしまうことだと思う。

独自の判断をすること自体が悪いわけではない。だが、独自であることには、それだけでは価値がない。

根拠がある独自判断ならいい。調べた上での異論なら意味がある。専門家の合意がどこにあり、どこから先が未確定なのかを見た上で、「ここは自分はこう考える」と言うなら、それはちゃんとした考え方だと思う。

ただ、根拠の薄い独自判断は、単に根拠の薄い判断である。

「自分の頭で考える」は、これをうまく隠してしまうことがある。

なんとなく主体的で、なんとなく立派に見える。人に流されていない感じがする。だが実際には、専門的な知見や公式情報を見ないまま、自分にとって気持ちのいい結論を選んでいるだけかもしれない。

今必要なのは、「自分の頭で考えるな」ではない。

そうではなく、「自分の頭で、何を調べるべきか考える」「誰の知見を借りるべきか考える」「どこで判断を保留すべきか考える」ことなのだと思う。

全部を自分の頭の中だけで完結させる必要はない。

むしろ、自分の頭だけで完結できると思ってしまうことのほうが、今の時代には危ない。ネットには情報が多すぎる。AIはそれっぽい文章をいくらでも出してくる。SNSでは、気持ちよく怒れる話や、気持ちよく断言できる話がどんどん流れてくる。

その中で本当に必要なのは、強い意見を持つことではなく、情報との距離感を間違えないことなのだろう。

「自分の頭で考える」という言葉は、今でも使える。

ただし、それは「自分だけで結論を出す」という意味ではなく、「自分の頭を使って、正しい情報に近づく」という意味で使ったほうがいい。

そうしないと、この言葉は簡単に、無責任な独自見解の隠れ蓑になってしまう。

そして昨今、それはもうかなり起きているように見える。