空気警察がやって来る
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夫の趣味である釣りで、釣ってきた魚の処理や後片付けを妻がやるのが当たり前にされていて限界、という話を見かけた。
まず思う。
自分でやれ。
釣りは魚を釣ったところで終わりではない。釣った魚を持ち帰り、捌き、台所を洗い、排水溝の鱗を取り、何かよくわからない海のにおいを消すところまでが釣りである。魚を釣るのが趣味なら、台所の後片付けまで趣味の範囲に入れてほしい。少なくとも、趣味の最終工程だけ家族へ外注しないでほしい。
ただ、この話の面倒なところは、たぶん「自分でやれ」と思っていても、それを言っていいのかどうか分からなくなるところにある。
日本人は空気を読むのが得意だと言われる。
ただ、それは自分の中に強い判断基準があるというより、その場に漂っている空気を読む能力が高いということなのかもしれない。電車の中では静かにする。列があれば並ぶ。みんなが靴を脱いでいれば靴を脱ぐ。周囲に十分な空気があれば、人はそれを読んで動ける。
しかし、空気がない場所では困る。
たとえば家庭内である。
家庭というのは、小さい社会である。小さい社会なので、そこで長く続いている変なルールも、いつの間にか常識みたいな顔をする。夫が釣ってきた魚を妻が捌く。あるいは、夫が捌いたとしても、夜の台所が悲惨な状態で放置され、その後片付けは妻がする。最初は変だと思っていても、それが何度も続くと、だんだん「これは変なのか、そういうものなのか」が分からなくなる。
空気を読んで生きている人たちは、無意識に空気を読みすぎている。読める空気があるときはよい。だが、読める空気がないシチュエーションになると困惑する。
そこでSNSである。
家の中に空気がないなら、外から空気を取り込めばいい。窓を開けるようにスマホを開く。投稿する。
すると、空気警察がやって来る。
空気警察はスマホの狭い窓から現場を見る。
夫の趣味である釣り。
釣ってきた魚。
夜10時の台所。
鱗。
内臓。
謎のぬめり。
そして後片付けは妻。
空気警察は腕を組む。
これはだいぶよくないですね。
さらに事情聴取が始まる。
釣りは誰の趣味ですか。
魚を持ち帰ったのは誰ですか。
台所を魚市場のようにしたのは誰ですか。
後片付けをする気はありましたか。
その趣味、なぜ後半だけ家庭内労働になっているのですか。
こうして、SNS上で現場検証が進む。空気警察はかなり騒がしい。現場にやって来る人数も多い。たまに現場を見ずに叫んでいる人もいる。別件の恨みを持ち込む人もいる。捜査資料を読む前に、すでに怒っている人もいる。
それでも、家の中でひとり「これは嫌だと思っていいのか」と迷っている人にとっては、外の空気が入ってくる意味はある。
「それはおかしい」
「趣味なら後片付けまでやれ」
そういう声をたくさん浴びて、ようやく自分の感覚が変ではなかったと確認できる。
空気を読む文化というのは、うまく機能しているときは便利である。いちいちルールを明文化しなくても、なんとなく場が回る。誰かが困っていたら少し避ける。列に並ぶ。静かにする。そういう暗黙の調整能力は、たぶん社会をかなり滑らかにしている。
ただ、それは同時に、自分で判断しなくても済む文化でもある。
空気があれば、それを読めばいい。周囲がどうしているかを見ればいい。みんなが嫌がっていれば嫌がっていいし、みんなが受け入れていれば受け入れる。自分の中に明文化されたルールがなくても、場の空気が判断を肩代わりしてくれる。
しかし、家庭内のような閉じた空間では、その空気が片方にだけ都合よく作られてしまうことがある。趣味を楽しむ人と、後片付けをする人。怒る人と、怒られる人。頼む人と、断りにくい人。そういう小さい力関係の中で、変な空気が固定される。
そして、その空気の中にいると、自分が苦しいのに、それを苦しいと言っていいのか分からなくなる。
そこで、SNSに持ち込む。
捜査が一通り終わると、いつの間にか空気裁判所が開廷している。
判決。
自分で釣った魚は、自分で片付けること。
もちろん、空気裁判所の判決がいつも正しいとは限らない。冤罪も多い。量刑もめちゃくちゃだ。ときどき微罪を懲役300年くらいの勢いで燃やす。情報が足りないのに有罪にすることもあるし、逆に妙な方向へ話が飛んで判決が有耶無耶になることもある。
それでも、自分の家の中の空気だけでは息が詰まるとき、人は外の空気を吸いに行く。SNSは巨大な空気清浄機というか、空気交換機というか、かなり雑な換気扇みたいなものなのかもしれない。変なものも一緒に入ってくるが、とりあえず空気は動く。
もともと魚を釣ってきた人が台所を片付ければ済む話である。
ただ、その当たり前を言うために、人はときどきインターネットから空気を輸入しなければならない。
そして輸入された空気を吸って、ようやく言える。
自分でやれ。
