日本人の空気を読む能力は聖徳太子由来である説
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日本人はものすごく空気を読むことができる。少なくとも他国の人からはそう見られているようだ。
最近、外国人が日本に来ていろいろなカルチャーショックを受けた、みたいなYouTube動画をよく見ている。
コンビニが便利すぎる。電車が時間通りに来る。落とし物が返ってくる。街がきれい。店員が丁寧。ラーメンをはじめ、食べ物が安くてうまい。だいたいそのあたりは定番だ。
その中でも、よく出てくるのが日本人の「空気を読む」能力の話である。
日本人は、言語化されていないルールに従っている。
明文化されていないのに、なぜかみんな同じように動く。しかも、そのルールは固定ではない。電車の中では静かにする。何かを待つ場所では自然と列を作る。混んでいる道では、なんとなく人の流れに沿って歩く。会議では発言していいタイミングと、今は黙っていたほうがよさそうなタイミングがある。
ルールブックがあるわけではない。
壁に「ここではこう振る舞いましょう」と全部書いてあるわけでもない。
しかし、日本人はその場に放り込まれると、なんとなく周囲を見て、今この場で優先されているルールを察知し、それに合わせて動く。
日本に来た外国人から見ると、これはけっこう不思議なのだと思う。
なぜ誰も言っていないのに列ができるのか。なぜ強く注意されているわけでもないのに、静かな場ではみんな電話での通話を避けるのか。なぜみんな、いま自分がどう動くべきかを、周囲の様子から読み取っているのか。
もちろん、日本人全員が空気を読めるわけではない。
空気を読まない人もいる。読めない人もいる。読みすぎて疲れている人もいる。ただし全体として見ると、日本人は空気を読むのがうまく、それで日常を回している。
日本社会には「この場で自分がどう振る舞うべきかを、周囲の雰囲気から察するべきだ」という圧力があるとも言えるだろう。
では、その圧力はどこから来ているのか。
いろいろある中に日本人の魂のルーツとなるような妙に強いものがあるのではないかと気がついた。
聖徳太子である。
聖徳太子というか、十七条の憲法である。
その第一条。
和を以て貴しとなす。
本当はそのあとに、「忤ふること無きを宗とせよ」、つまりむやみに逆らい争わないことを基本にせよ、という話まで続く。
これ、みんな小学校で習っているはずだ。
たぶん日本で小学校教育を受けた人なら、かなり高い確率で知っている。十七条の憲法の他の内容は忘れていても、「和を以て貴しとなす」というフレーズだけは、妙に頭の中に残っているだろう。
ここがすごい。
道徳の時間に先生が「みんな仲良くしましょう」と言っても、まあそうですね、という感じである。もちろん大事なことではある。ただ、それは道徳の授業で先生が言っている望ましい話、という感じがする。
一方で、「和を以て貴しとなす」は歴史で習う。
道徳ではない。
歴史である。
ここが妙に強い気がする。
歴史で習うと、それは単なる「よい子はこうしましょう」ではなくなる。昔の偉い人が定めた、日本の古い原理みたいな顔をしてやってくる。
しかも聖徳太子である。
日本史の序盤に出てくる、やたらと強いキャラクターだ。昔は一万円札にもいた。十人の話を同時に聞いた、みたいな超人エピソードまでくっついている。小学生にとっては、もはや半分くらい伝説上の人物である。
その聖徳太子が、国をうまくやるには和が大事だと言っていた。
そう習う。
すると、それはかなり刷り込まれる。
みんな仲良くしましょう、ではない。
日本は昔から、和を大事にすることになっているのだ。
そういう感じになる。
和を以て貴しとなす。
争うな。
うまくやれ。
周囲と調和しろ。
その場の和を壊すな。
こうして見ると、これはだいぶ「空気を読め」と言っている。
いまどきの言葉に言い直すなら、かなりの部分で「空気を読んでうまくやろう」になるのではないか。
電車の中で大きな声で電話をしない。
不特定多数が順番に何かをする場所では、列を作る。
誰かが話している場では、割り込む前に一度まわりを見る。
自分の正しさを押し通す前に、その場が壊れないかを考える。
これらは全部、現代版の「和を以て貴しとなす」なのではないか。
もちろん、これはかなりいい加減な説である。
学術的に検証する気もないし、たぶん検証しようとしたら一瞬で怒られそうだ。日本人の空気読みはもっと複雑で、家庭、学校、会社、地域社会、言葉づかい、いろいろなものが絡んでいるのだろう。
ただ、わたしの中では妙にしっくり来ている。
そう考えると、電車の中で静かにしている人たちの頭上に、うっすら聖徳太子が浮かんでいるのが見えてくるような気がしてくる。