「見ていて不快だから禁止」を公平に運用すると

【読むのに約 2 分】

授業中、同性婚についてのグループワークで「見てて不快だから反対」と言った学生がいて、なんとも言えない気持ちになった話

同性婚に反対する理由として、「見ていて不快だから」と言った学生がいたらしい。

ずいぶん率直である。制度がどうとか、家族観がどうとか、子どもへの影響がどうとか、もっともらしい説明を積み上げる人も多い中、いきなり感情だけを出してきた。そこまでまっすぐ言われると、ちょっと感心しそうになる。

同性同士のカップルを見て不快に思うこと自体は、まあ内心の自由だ。人間は何を見て不快になるかまで完全には制御できない。わたしだって世の中の色々なものを見て、勝手に嫌だなーと思いながら生きている。

ただ、「見ていて不快」と「だから禁止する」の間には、まあまあ大きな距離がある。

そこで、このルールを同性婚以外にも公平に適用してみよう。

派手な服を見ていて不快な人がいる。入れ墨が不快な人もいる。電車でいちゃつく男女が不快。大声を出す子どもが不快。店員に説教する年寄りが不快。おじさんの短パンが不快。SNSで政治を語る人が不快。カフェでノートパソコンを開いている人が不快。

ブログで、頼まれてもいないのにこんなことを長々と考えている人が不快、という人もいるだろう。

人間は、誰かを見て不快になる生き物であると同時に、誰かから見て不快な生き物でもある。自分だけは全員から快適に鑑賞されている、ということは多分ない。

だから「見ていて不快だから禁止」を社会のルールとして採用すると、対象はどんどん増える。まず自分が嫌いな人を禁止する。そのうち別の人が自分を見て不快だと言い始める。そこで、自分の不快は正当だが、相手の不快は偏見である、と言い張る必要が出てくる。

もちろん、不快だとしても何でも我慢しろという話でもない。騒音や悪臭、通行妨害など、他人の生活へ具体的な負担を与えるものは制限されることがある。誰かの権利と誰かの権利がぶつかる場合もある。

でも、そこでは「わたしが嫌だった」からもう一段進んで、誰にどんな被害や負担があるのかを説明する必要がある。同性の二人が結婚したことで、自分が同性と結婚させられるわけではない。見かけたくない、というだけでは、他人の権利を制限する理由としては弱い。

自分が不快に思う自由を守ってほしいなら、他人が自分を不快に思う自由も認めなければならない。そして、他人の不快感だけを理由に、自分の生活を禁止されたくないなら、自分も同じことをしないほうがよい。

たぶん、そこまで考えられるかどうかが最初の一歩なのだろう。

「見ていて不快だから禁止」をむやみに適用していったとき、自分は絶対に禁止にならないという者のみ、石を投げなさい。

「見ていて不快だから禁止」を公平に運用すると