「もしも本当だったら」法を制定しよう

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「もしも本当だったら」という言い方がある。

最近、政治文脈でもよく見かける。誰かが何かについて疑惑めいた話をする。それに対して、別の誰かが「もしも本当だったら大変だ」と言う。

まあ、それはそうである。

本当だったら大変なことは世の中にたくさんある。

わたしの銀行口座が明日突然百倍になっていたら大変だ。大変というか、かなりうれしい。逆に、家の鍵を閉めたつもりで閉めていなかったら大変だ。冷蔵庫の奥から賞味期限を大幅に過ぎた豆腐が発見されたりしたら、それもまあまあ大変である。

本当だったら大変だ。

この文だけを見ると、だいたい何にでも言える。

問題は、その前にある「もしも」がどのくらいの「もしも」なのかである。

確率七割くらいの「もしも」なのか。

確率三割くらいの「もしも」なのか。

確率一パーセントくらいの「もしも」なのか。

それとも、誰かが雑に投げた可能性の話を、別の誰かが拾って大きくしているだけなのか。

ここがあまりにも雑に扱われている気がする。

SNSでよくある。

まず誰かが、かなり薄い根拠で可能性の話をする。

「こういう可能性もあるのではないか」

「まだ断定はできないが、もしそうなら問題だ」

「本当だったらかなりまずい」

ここまでは、まあ仮定の話である。

しかし、そのあとがよくない。

次の人が、その仮定を少し事実寄りに扱う。

「そんなことが本当に行われていたなら許されない」

さらに次の人が、もう少し怒る。

「こんなことを放置していいのか」

さらに次の人が、ほぼ確定事項のような顔で話し始める。

「こういうことをする連中だから信用できない」

気づくと、最初は「もしも」だったものが、だいぶ事実のような扱いになっている。

もちろん、仮定の話をしてはいけないと言っているわけではない。

まだ証明されていないことについて、可能性を考えることは必要だ。調査も報道も議論も、最初は「もしも」から始まることがある。もしも問題が本当なら、早く手を打たなければいけない、という場面もある。

ただ、それは確率の話とセットでなければいけない。

どのくらい本当らしいのか。

何を根拠にそう思っているのか。

反対の証拠はあるのか。

本当ではなかった場合に、誰がどのくらい損をするのか。

このあたりを全部すっ飛ばして、「もしも本当だったら大変だ」だけで論陣を張るのは、さすがに便利すぎる。

便利すぎる言葉は、だいたい悪用される。

「もしも本当だったら」は、その代表の一つだと思う。

なぜ便利なのか。

断定していないからである。

「本当だ」と言っているわけではない。あくまで「もしも」と言っている。だから、あとから間違っていたとしても逃げられる。

いや、私は断定していませんよ。

可能性の話をしただけですよ。

本当だったら大変だと言っただけですよ。

そう言える。

しかし、聞いている側にはちゃんと影響を与えている。

疑いを植え付ける。怒りを発生させる。誰かへの印象を悪くする。議論の前提を少しずつずらす。

言っている本人は仮定のつもりでも、受け取る側の頭の中では、だんだん事実に近づいていく。

このズルさがある。

というわけで、法律を作ったほうがいい。

「もしも本当だったら」法である。

この法律では、「もしも本当だったら」という論陣を張る者は、必ず同じ重さで「もしも本当ではなかったら」についても語らなければならない。

たとえば、誰かについて「もしも本当だったら大問題だ」と言うなら、同時に「もしも本当ではなかったら、この人は根拠の薄い疑いを向けられていることになる」とも言わなければならない。

何かの組織について「もしも本当だったら解体すべきだ」と言うなら、「もしも本当ではなかったら、関係者を不当に叩いていることになる」とも言わなければならない。

ある出来事について「もしも本当だったら許されない」と言うなら、「もしも本当ではなかったら、許されないのは批判している私の方かもしれない」とも言わなければならない。

同じ文字数で。

同じ熱量で。

ここが大事である。

小さく添えるだけではだめだ。

「もちろん事実確認は必要ですけど」みたいなエクスキューズを最後に置くだけでは、免罪符として弱すぎる。

本当に「もしも本当だったら」で人を殴るなら、「もしも本当ではなかったら」で自分も同じだけ殴られる覚悟を決めるべきである。

罰則も必要だ。

罰則なしでは、この手の雑な論陣を張る人は減らない。

違反者は、三日間すべての投稿の先頭に「私は確率がわかりません」と表示しなければならない。

二回目の違反では、一週間、語尾に「というデマを垂れ流しているのかもしれません」を付ける。

三回目の違反では、過去に自分が言った「もしも本当だったら」発言を掘り返し、一つずつ「もしも本当ではなかったら」版を長文ポストする刑に処す。

罰金などではすまさない。

言論には言論で罰を与えるべきだ。

もちろん、これは冗談である。

本当にそんな法律を作ったら、それはそれで面倒なことになる。誰が取り締まるのか。どこからが「もしも本当だったら」なのか。皮肉や比喩はどう扱うのか。

ただ、気分としてはそのくらいやってほしい。

それくらい、「もしも本当だったら」は雑に使われすぎている。

仮定には重さがある。

可能性の話にも、相手を傷つける力がある。

断定していないから無罪、ということにはならない。

もしも本当だったら。

たしかに、それは大変かもしれない。

しかし、もしも本当ではなかったら。

それも同じくらい大変だと思っておいたほうが良い。