オリジナル作品じゃないのに

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Togetter: 「『宝島』という映画を見に行く気が失せた理由の一つです」映画の予告編を見たら直木賞受賞という小説家が原作者だった!?

映画『宝島』の予告編で、監督の名前は大きく出ているのに、原作者の名前がちゃんと出ていない、という話を見かけた。

もう少し正確に言うと、本来なら原作者である真藤順丈の名前が大きく書かれていそうな場所に、「直木賞受賞」と書かれている。監督名は大きい。大友啓史。そこは人名である。一方で原作側は、「直木賞受賞」。

いや、賞が書いたんじゃないだろう。

『宝島』は真藤順丈の小説で、第160回直木賞を受賞している。映画公式サイトでも、戦後沖縄を描いた真藤順丈の小説を実写映画化した作品だと紹介されている。つまり、原作はちゃんとある。

原作者名をメインで出したうえで「直木賞受賞作」と添えるなら分かる。受賞作であることは宣伝上の強い材料だろう。そこを使うなとは思わない。

ただ、人の名前を書くべきところを受賞歴に差し替えているように見えると、急に不穏な感じになる。原作者本人よりも、宣伝に使いやすい肩書きが大事なのね。原作者はどうでもいいのね。そう見えてしまう。

結局これは、オリジナルを作った人へのリスペクトが足りなく見える、という話なのだろう。

映画化する側が本当に原作者を軽く見ているのかどうかは分からない。現場ではちゃんと敬意を持っている人もいるのかもしれない。監督や脚本家が原作を読み込み、俳優が登場人物を考え、スタッフが世界観を作り込む。そういう仕事はたぶん山ほどあるはずだ。

でも、外に出てくる宣伝物を見ると、リスペクトが足りないように見えることがある。そこが問題なのだと思う。

なぜそう見えるのか。映画は大きなお金が動く。回収するにはヒットさせる必要がある。ヒットさせるためには、原作者名より「直木賞受賞」のほうが伝わる。そう宣伝側が判断することもあるのだろう。真藤順丈という名前を知っている人より、直木賞という言葉を知っている人のほうが多い。

そういう計算は分かる。分かるが、その計算を優先しすぎると、人の名前をきちんと扱う、という最低限の礼儀が削られる。倫理観を捨てている、とまで大げさに言うかはともかく、売るためならそこを捨てるんだな、とは見えてしまう。

すごく話を飛ばすと、先祖への感謝みたいな話に近いのかもしれない。自分が存在するには先祖がいる。作品も同じで、映画『宝島』が存在するには小説『宝島』がある。そこへの感謝や敬意が見えないと、なんか嫌な感じがする。

もちろん、予告編のデザインにはいろいろな事情があるのだろう。誰の名前をどの順番で、どの大きさで出すか。契約もあるだろうし、宣伝上の判断もあるだろうし、映画業界の慣習もあるのだろう。全部が全部、原作者を軽く見た悪意からです、みたいな単純な話ではないと思う。

ただ、オリジナル作品ではないのに、一次創作に対して、俺たちのほうが金かかってるんで、そちらは受賞歴だけ貸してください、みたいな顔をしているように見えると、まあ反感を買うよね。

ところで、この話の流れで、直木三十五が昔は直木三十一、直木三十二、直木三十三と、年齢に合わせてペンネームを変えていたという話を初めて知った。毎年インクリメントするペンネーム。作家名というより、バージョン番号である。直木 v31、直木 v32、直木 v33。最終的に直木三十五で安定版リリースされたらしい。おもろ。

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オリジナル作品じゃないのに