「頭がいいのにクズ」は目立つ
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Togetter: 塾で上のクラスを教えていればわかるが、ものすごく頭がいいのにモラルや常識に欠ける子はたくさんいるという話→体験談が集まる…偏差値や優越感などが焦点に
頭はものすごくいいのに、モラルや常識に欠ける子がいる、という話を見かけた。
塾の上のクラスにいるような、勉強ができる子たちの中にも、電車内での振る舞いとか、人への配慮とか、そういう部分がかなり危うい子がいる、という話である。Togetterには、似たような体験談や、偏差値と倫理は別物だ、みたいなコメントが集まっていた。
まあ、偏見大集合ではある。
もちろん、そういう子はいるだろう。頭がよくて、勉強ができて、でも他人への配慮が薄い。自分が合理的だと思ったことをそのまま通そうとする。社会の暗黙のルールを軽く見る。あるいは、そもそも見えていない。そういう人間はいる。子供にもいるし、大人にもいる。
ただ、それは頭がいい集団にだけいるのかというと、そんなことはないと思う。倫理的にまずい人は、たぶんどんな層にもある程度いる。偏差値が高い集団にもいるし、低い集団にもいる。運動部にもいるし、文化部にもいる。会社にもいる。町内会にもいる。
個人的な感覚で言えば、偏差値が高い集団のほうが、低い集団よりもそういうクズ率はさすがに低いのではないかと思っている。これは厳密な統計ではない。ただの体感である。だが、少なくとも「頭がいい子ほどモラルがない」と単純化するほどではないだろう。
ではなぜ目立つのか。
たぶん、「頭がいいのに」の「のに」が強い。
頭がいいなら、これくらい分かるだろう。勉強ができるなら、社会的なルールも理解できるだろう。難しい問題を解けるなら、人の気持ちも少しは考えられるだろう。そういう期待がある。
その期待を裏切るから目立つ。
たとえば、何も考えていなさそうな人が何も考えていない行動をしても、まあそういうものか、で終わることがある。よくない。よくないが、驚きは少ない。ところが、いかにも賢そうな人が、ものすごく雑な倫理観で動くと、印象に残る。お前、その頭でそこに気づかないのか、となる。
これは、比較による強調効果だと思う。
逆方向で言えば、不良がちょっと良いことをしたら良い人に見える、という話でもある。普段から真面目な人がゴミを拾っても、まあそういう人だよね、で終わる。普段から悪そうな人がゴミを拾うと、急にいいやつ感が出る。いや、ゴミを拾っただけなのだが。
これも期待値との差分である。期待値が低いところから少し上がると、やたら大きく見える。期待値が高いところから少し下がると、やたらがっかりする。人間は絶対値ではなく、差分を見ている。
高級レストランで水がまずいと妙に腹が立つ。安い定食屋で水がぬるくても、まあそんなもんか、となる。期待値が違うと受け止め方も変わる。
頭がいい人に対しても、同じような期待値があるのだろう。賢いなら倫理も高いはず。賢いなら社会性もあるはず。賢いなら常識もあるはず。
でも、たぶんその期待はだいぶ雑である。
偏差値は、基本的には試験問題を解く力を測る。文章を読んで、数式を処理して、知識を覚えて、決められた時間内に答えを出す力である。それは大事な能力だが、他人の困りごとに気づく力や、自分が得をするときにでも一歩引く力とは別物である。
RPGのステータスで言うと、偏差値はINTっぽい。知識、計算、理解、問題処理能力。そのへんである。では倫理や常識はWISなのか、と思いかけるが、WISも別に倫理観の高さではない。あれは知恵、判断力、直感、感覚の鋭さみたいなものだろう。
知力が高いからといって、徳が高いとは限らない。WISが高いからといって、善人とも限らない。状況判断がうまく、空気も読めて、そのうえで平然とひどいことをする人もいる。むしろ一番たちが悪い。
では倫理観はINTでもWISでもない別ステータスなのか。そう言いかけたが、それも少し違う気がする。
倫理観とか道徳とかは、絶対指標ではない。人によっても違うし、地域によっても違うし、時代によっても違う。同じ行動でも、ある共同体では当たり前で、別の共同体ではかなり失礼、みたいなことはいくらでもある。
つまり、倫理観はステータス画面に「ETH 72」みたいに表示できるものではないのだと思う。INTやWISとは別ステータスというより、そもそも数値化できるステータスではない。人間関係、生活環境、文化圏、その場のルール、本人の経験、そのへんが混ざって出てくる振る舞いである。
だから、Xで誰かの倫理観や道徳を強くディスっている人の側の指標も、普通に偏っている可能性がある。
もちろん、明らかに人を傷つける行為や、迷惑をかける行為はある。そこまで全部相対化したいわけではない。ただ、「こんなの常識だろう」「まともな倫理観があれば分かるだろう」と言っているその常識や倫理観が、どの範囲で共有されているものなのかは一度考えたほうがいい。
自分の村の道徳を、世界標準のステータス表みたいに扱うと、話がかなり雑になる。
ともかく「勉強ばかりできる子は危ない」みたいな話に持っていくのはかなり雑だ。
頭のいい子の中にも、ちゃんと優しい子はたくさんいる。むしろ、状況を理解する力があるぶん、説明すればかなり早く納得する子も多いだろう。逆に、勉強が苦手でも、他人への配慮が自然にできる子もいる。勉強もできず、配慮もできない子もいる。勉強もできて、配慮もできる子もいる。人間、面倒である。
結局、偏差値と倫理を同じ枠に入れて語ろうとするから無理が出る。
頭がいいのにモラルがない。頭が悪いけど優しい。頭がいいから冷たい。頭が悪いから乱暴。そういう言い方は、分かりやすい。分かりやすいが、雑である。
ただ、教育の現場では「それくらい言わなくても分かるだろう」が通じない場合がある、という指摘は大事だと思う。
勉強ができる子だから、社会性も勝手に育つだろう。頭がいいから、常識も自動で身につくだろう。そういう期待は危ない。勉強ができる子にも、言わないと分からないことはある。というより、言わないと分からないことは誰にでもある。
常識というのは、脳内に最初から入っている標準ライブラリではない。どこかで教わったり、怒られたり、失敗したり、周囲を見たりして、あとから入ってくるものだ。
だから、頭がいい子にも、これはしてはいけない、これは迷惑になる、これは相手が困る、という話は必要なのだろう。むしろ頭がいいぶん、変な理屈で自己正当化することもある。そこは早めに潰したほうがいい。
ただ、それは「頭のいい子はモラルがない」という話ではない。
「頭がいいのにモラルがない子は、期待との差で目立つ」という話だと思う。
そこを間違えると、偏差値の高い子を叩きたい人たちと、偏差値の低い子を見下したい人たちが、それぞれ好きな方向に話を持っていく。
まあいつものインターネットである。
頭がいい人にもクズはいる。頭がよくない人にもクズはいる。頭がいい人にも善人はいる。頭がよくない人にも善人はいる。
あまりにも当たり前すぎる。
しかし、当たり前の話はバズりにくい。
だから今日も、「頭がいいのに」というわかりやすい修辞が、インターネットではバズっている。