自分の読み方を正解にしないでほしい

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Togetterまとめ: ドラえもんの「ぼくの生まれた日」はもともと親のパターナリズムへの強烈な皮肉として読める?道徳の教科書に登場するエピソードの解釈が議論に

ドラえもんの「ぼくの生まれた日」が道徳の教科書に載っていて、その扱い方について議論になっているらしい。

元の話を、親のパターナリズムへの強烈な皮肉として読めるのではないか、という話である。

なるほど。

そういう読み方はできるのだろう。

親が子に願いを託す。よかれと思って理想像を並べる。子どもはそれを知って、いろいろな気持ちになる。そこに、親の愛情だけではなく、親の期待の押しつけのようなものを見ることはできる。

そう読める、という話ならかなり面白い。

ただ、教科書での扱われ方も、別にそれはそれで普通に読めるのではないかと思う。

日常生活ではあまり感じないけれども、家族は家族なりに、自分のことをいろいろ考えてくれていた。気にかけてくれていた。生まれたときから、何かしらの願いや期待を持って見てくれていた。

それをあとから知って、ああ、そうだったのか、と思う。

そういう再発見の話として読むのは、かなり自然だと思う。

それを感謝と呼んでもいい。もう少し雑に、家族って案外ちゃんと自分のことを見ていたんだな、と思う話として読んでもいい。

もちろん、そこには、目先の感動ですぐに行動を変えようとする単純な人間への呆れも混ざっている。のび太は感動する。よし、これからはちゃんとしよう、と思う。たぶん長続きしない。

ドラえもんだし。

もちろん、その読みを唯一の正解として押しつけられたら窮屈だ。作品を読んだ子どもが「親の期待ってちょっと重いですね」と言ったときに、「いや、ここでは家族への感謝を読み取りましょう」と戻されるなら、それはちょっと嫌だ。

でも、教科書の読み方自体が完全におかしいかというと、そこまでは思わない。

作品の読みというのは、そういうものだと思う。ひとつの作品に、いくつもの読み方が重なる。作者が意図したかどうかとは別に、時代や読者や置かれた場所によって、見え方が変わる。

親の愛情の話として読んでもいい。親の期待の重さとして読んでもいい。子どもが自分の生まれた意味を少し知る話として読んでもいい。のび太が自分の存在を少し肯定できる話として読んでもいい。

どれか一つだけに決めなくていい。

過剰な期待そのものを、すぐにパターナリズムと呼んでいいのかも少し気になる。

人はわりと勝手に期待する。

親が子どもに期待するだけではない。応援しているスポーツ選手にも期待する。スポーツチームにも期待する。推しにも期待する。会社の新人にも、後輩にも、たまたま才能がありそうに見えた近所の子どもにも期待する。

今年こそ優勝してくれ。あの選手にはもっと上に行ってほしい。君はやればできる。将来はすごい人になる。

言っている側はたぶん気持ちがいい。言われる側は、場合によってはうれしいし、場合によっては重い。

でも、それだけで即座に支配や介入になるわけではない。

問題は、期待が介入権と結びついたときだろう。

応援しているスポーツチームに対して、いくら過剰な期待を抱いても、普通のファンはスタメンを決められない。監督を解任できない。選手の食事を管理できない。せいぜいSNSで文句を言うくらいである。それはそれでうるさいが、介入権はない。

一方で、親は子どもに対して実際に介入できる。習い事を決める。進路に口を出す。生活を管理する。だから、親の期待は、ただの期待よりずっと重くなりやすい。

ここまでは分かる。

ただ、「ぼくの生まれた日」の話だけを見ると、親がその理想像に合わせてのび太を強く矯正した、というところまでは語られていないように見える。

少なくとも、ドラえもん全体を見ても、のび太の両親はのび太をすごい人間に作り替えるために、長期的に強く介入している感じではない。怒る。叱る。小言を言う。勉強しなさいと言う。まあ親なので言う。

でも、のび太を「思いやりがあって、勇かんで、明るく男らしく、たくましく、清く正しく美しく」に仕上げるためのプロジェクトを回している感じではない。

そんなプロジェクトがあったら、たぶん第一話から進捗が破綻している。

だから、「親の期待が過剰に表現されている」と読むことはできる。

でも、「親のパターナリズムへの強烈な皮肉」とまで読むには、独自の読みの補助線が必要な気がする。

その補助線を引くこと自体は面白い。

ただ、その読み方をしない人に対して、強く主張するほどのものではないように思う。

こういうふうにも読める。

ここまではいい。

こう読まないのはおかしい。

そこまで行くと、だいぶ話が変わる。

たぶん、パターナリズム的なものに対して、もともとかなり否定的な思想を持っていて、それがこの文脈で強く出てきたのだろう。

それ自体は別にいい。人にはそれぞれ、長く考えてきたテーマや、引っかかり続けている問題がある。親の支配、教育の押しつけ、大人の善意による子どもの管理。そういうものに敏感な人が、この話を見て強く反応するのは分かる。

分かるのだが、それを教育のあらゆる場面で出してこられると、ちょっと困る。

教育は、もっとフラットな思想でやってくれないかな、と思ってしまう。

もちろん、完全に思想のない教育なんてものはない。教科書に何を載せるか、どんな問いを立てるか、その時点でもう思想は入っている。

でも、だからこそ、自分の強い思想を正解として前面に出しすぎないでほしい。

教科書側が、家族の気遣いの再発見として読むのも、ひとつの方向づけである。そこに思想はある。

でも、それを批判する側が「これは親のパターナリズム批判として読むべきだ」と強く言いすぎるなら、それもまた別の方向づけである。そこにも思想はある。

どちらが善で、どちらが悪という話ではない。

どちらも読みとしてはあり。

でも、どちらも唯一の正解ではない。

ドラえもんは、たぶんそこまできれいな教材ではない。もっと雑で、ひどくて、笑えて、たまに泣けて、ときどき怖い。子どもの味方のようで、大人が読むと全然違うものが見える。

だから良いのだと思う。

それを、家族の気遣いの再発見として読むのもありだし、親の期待の重さとして読むのもありだ。どちらか一方に固定されると窮屈である。

完全な間違い以外は、基本的には何でもあり。

作品を読むときくらい、そのくらいの雑さを残しておきたい。

のび太だって、たぶんそこまできっちり読まれたくないだろう。

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